カ ラ フ ル な ふ ゆ

園山ふゆ 日々雑記

今夜も黒糖フークレエ

昨日は涙目になるくらい気分が落ち込んだ。

 

仕事でお世話になっている先輩とは考え方が違いすぎる。意見の違いが生じるのは他人同士だから当然のことではあるけれど、先輩と私の間にある溝は深くて果てしない。

 

先輩の仕事に対する情熱や根気強さには敬意を払っているが、それでも納得できないことは納得できない。「ちょっとそれは違うのでは?」と言葉にせずとも表情に出ている私の横顔を先輩は絶対に見逃さない。私を黙らせるための理論というか理屈というべきか、しつこく球を投げてくる。「仕事だから当然」など、すでに錆びついてしまった定型句を聞いていると、どんどん意識が遠のいて反論する気も失せてくる。こちとらアラフォーのおばさんなんですけど、おそらく先輩の瞳に映っている私は先輩と出会った20年前のままで、“俺が導いてやる後輩”なのだと思う。いや、そうであってほしいと願っているのだろう。

 

その当時、すでに働き盛りであった先輩は、私にとって頂上が雲で隠れていておいそれと見ることはできない巨大な山のような存在だった。けれど、何かあると語気を強めたり話を遮断する先輩は、本当は自信がなくて何をやっても満たされないという病を抱えた大人なのだと後になって気がついた。私は若く、無知だった。

 

ただ、いろいろなことを教えてもらって心から感謝もしている。せめてもの恩返しにできる範囲で仕事を手伝いたいとは思っているけれども…。あ~ダメだダメだ。こんなにもモヤモヤする日は、あいつに頼るしかないっ!あいつとはもちろん、黒糖フークレエだ。知る人ぞ知る、山崎製パンの超ロングセラー商品である。理由はよく分からないけれど、市販のパンなのにラップに巻かれて販売されている。レトロ感のある商品だ。

 

黒糖フークレエは1包装あたりの炭水化物が138.9gと、ぽちゃを気にする私としてはそのパワーに圧倒されてしまい、大好きなのになかなか手に取ることができない。だからこそ特別モヤモヤした日に限定して私は私に買い与える。ラップに巻かれた地味な佇まいのパン。だけどこのパンの浄化能力を侮ってはいけない。

 

まず黒糖フークレエをトースターで焼く。5つに分かれるように切れ目が入れてあるので、その切れ目部分を上にして、なるべく広範囲を焼く。少しこげるくらい強気で攻めたほうがいい。そしてこんがりと焼き上がった面にバターを塗る。じゅわ~と染み出るくらいに塗る。炭水化物の量に加えてバターてんこ盛りなので、ぽちゃ面への配慮は無に等しいけれどここで正気に戻ってはダメだ。黒糖フークレエを食べる日は、私が私を許した日なのでもう躊躇なくバターを塗る。黒糖フークレエの表面で水たまりのように溜まっているバターを確認した瞬間の誇らしさ。「あたい、やってやったぜ!」と、悪いことに手を染めた“不良感”がたまらない。

 

そして熱いうちに食べる。これがもう筆舌に尽くしがたいくらい最高なのだ。最初に感じるのはこんがりと焼いた部分のカリッとした食感。その後に程よい塩味のバターがずずずっと押し寄せながら、「あい~や」と沖縄産黒糖の甘みにいざなってくれる。蒸しパン特有のモチモチ生地が、それらのうま味を逃さぬように、後方からしっかりガード。カリッ、じゅわ~、モチモチ。まるでどこかのCMみたいだが、これ以上の組み合わせがあったらぜひ教えてほしいと思うくらい完璧だ。食べると心がどんどん浄化されていく。サウナ好きな人が「整う」と表現する、あの感覚に近いと勝手に思っている。

 

炭水化物の量に配慮して、さすがに3切れでがまんして寝た。次の日は急いで起きる必要がなかったので目覚まし時計をかけずに寝た。爽快である。起き抜けに台所で白湯を一杯飲んだ。何となく白湯を飲んだから健康だと自分に暗示をかけている私の目に、2切れ残った黒糖フークレエが遠慮なく入ってきた。

 

黒糖フークレエは私を浄化するためのパンで、一晩ゆっくり寝た私はかなり元気を回復している。浄化の必要はなくなったが、それでも視界に入ったら最後目をそらすことはできない。圧倒的な存在感を放つパンがラップに包まれたまま私を待っている。

 

永遠に販売し続けてほしい私の浄化パン。山崎製パンにぜひお願いしたい。

希望の音

聞いているだけで心踊り、希望が湧いてくる音がある。


ロックだったり、ポップスだったり、クラシックだったり、いろいろな音があるけれど、私にとってそんな音の頂点はmoonridersだ。moonridersは直接的に「がんばれよ」なんてしらけた台詞は口にしないけれど、聞いているだけで日々の嫌なことが消えていく。洒落ていてセクシー、クールでありながら熱っぽい。ひとことで言うと「大好き」だ。

 

moonridersという棘のある刺激的な花に吸い寄せられてからというもの、あちらの花よこちらの花よと飛び回ることはなくなった。他にも大好きなアーティストはいるし、ライブにも足を運ぶけれど代替えのきかない存在であることは間違いない。moonridersとは、moonridersムーンライダーズ属というたったひとつの花で、いつ好きになったのかも忘れたけれど、私の窓辺で常に咲き続けて永遠に枯れることはないと確信している。

 

moonridersから感じる希望のようなものは、音からインスパイアされるだけではない。メンバーがこの世界に存在しているという心強さ。彼らの存在自体が希望だ。私のような若輩者に言われるまでもなく、古参のファンは切実に感じておられるだろう。

 

現役最古のバンドは1975年に結成されているので、まだ私が幼児の域を超えていない時代からのファンも多い。ライブでは50代、60代、いやそれ以上とお見受けする方もいて、ライブ当日は会場でウォッチングするのが楽しみだ。「久しぶり」「元気?」などと声をかけあって立ち話をしているファンをこんなにも見かけるライブは他に経験がない。私は未加入だが、ファンクラブを通して交流があるのだろうか。分からないけれど、ご夫婦、パートナー同士での参戦率も高いように感じる。

 

どのライブだったのか忘れてしまったが、ライブ開始前のウォッチング中にチャーミングなご夫婦の姿が目にとまった。白髪がよく似合っている奥様の洋服が乙女のようにかわいらしい。その横に口数の少ないご主人がたたずんでいた。結婚指輪が見えたのでご夫婦だと勝手に想像したが、苦楽を共にしてきた人同士にしか醸し出せない佇まいが感じられた。そんなご夫婦の姿が心に残っていたので、日比谷野音でも姿をお見かけして嬉しくなった。おまけに今回は私の斜め前の席だ。こんな偶然あるんだね。

 

ライブ前にSNSを通して呼びかけがあったのでお手製の旗を持参していた。声が出せないかわりに旗を振る、コロナ禍らしい工夫だ。私はライブが始まるとすぐに旗を取り出し、心の中で声援を送り、手を高く振り上げて拍手した。

 

徐々に日が傾き、ステージの上に月が顔を出した。ご夫婦はペンライトをそっと出して手元で控えめに振った。真っ赤に光るペンライトはおそろいで、ご夫婦の高揚を代弁するかのように赤く静かに揺れている。それはまさに希望を託された光のように見えた。

 

私はこれまで自分とパートナーとの間で、同じ趣味をもつ必要はないと思ってきた。基本的に単独行動が好きなので、ライブの9割は1人で参戦してきた。だからといって周囲の人たちが好きな音楽を聞きたくないわけではないし、誘われたらライブにも同行している。パートナーや友達が何を好きでも構わない。嫌いなことや許せないことが合っていれば問題ないと思っている。

 

けれどあのチャーミングなご夫婦、そしてライブでの再会を喜ぶファンの方々の姿を見ると、同じ音に希望を見いだすことの幸せを少しだけうらやましくも感じた。私が結婚するようなことになったとして、その相手がmoonridersファンだったら日々の彩りが増えるだろうと想像する。

 

約11年ぶりのオリジナルアルバムが間もなく発売されるが、その後はもちろんアルバムをひっさげてのライブに期待が高まる。3月の日比谷野音で再会を約束してくれたし、もちろん次のライブも絶対にチケットを確保したい。もしかしたら2枚確保することになるかもしれない…ムムムと、近い未来に淡い希望を見いだしたり、見いださなかったりしている。

春に始まる

まだまだ秋が遠く感じられる某日、私は10年ほど暮らした杉並区を離れ、渋谷区の住人になった。

 

にぎわう駅前の道を両腕が地面に垂れ下がるほどの荷物とともに歩く。この場所は、私のことを知らない人だらけなのだと思うと嬉しくなった。例えば世界の果てまで逃げられたとしても日常は途切れることなく続いていくのに、引っ越しには他では得がたいリセット感があるから好きだ。

 

笹塚に引っ越すことになったのは偶然で、最初は他の街を候補にしていた。だから新線や快速に乗れば新宿まで一駅ということすら知らなかったけれど、都心にありながらこの街はどこか素朴でホッとさせる空気が流れている。駅前にきれいな商業施設をつくってはみたものの何だか垢抜けない。つまりこの街は私に合っていると理解するのに時間はいらなかった。

 

春が来た。

この街での暮らしや、華やかではないがそれなりにカラフルな日々のことを綴りたい。